今から30年以上前の話になりますが、3月中旬の金曜日の夜に剣道の稽古をやっていた時のことです。稽古開始して1時間ほど経ち「そろそろ切り上げようかな」と思い始めたころ、面を打っていった際に、左足が「グキッ!」と音が鳴った感じがして、急に痛みが走りました。思わず「アキレス腱をやっちまったな!」と観念しました。稽古を中止して、同僚にかかえてもらって、車で救急病院まで搬送してもらいました。かかとをつくことができないくらい痛みがあったことを覚えています。

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救急病院では、当直の医師が整形外科の専門ではなかったらしく、応急処置として患部に湿布をあてて、その上を包帯で巻いてもらっただけで、「明日、再度来院してください」と言われて、その日は帰宅しました。眠れないほど痛かったのですが我慢するしかなく翌日再度病院に行って、整形外科の専門医に診断してもらうと「アキレス腱半断裂ですね。早速手術の上入院してください」と言われました。それから1時間以内に即手術、そのまま入院となりました。下半身に麻酔をかけ、うつ伏せの状態で手術を受けました。麻酔がかかっているので痛みはないのですが、手術を行う先生方の話がときおり聞こえてきて「やはり運動をやっている人(私のこと)のアキレス腱は太いなあ」だとか「この前の女性のアキレス腱はもっと細かったですよ」など、私を元気づけてくれているのか、世間話なのかわからないままに、1時間ほどで手術は終わりました。

手術後に入った部屋は8人ほどの大部屋でした。初日の夜は手術後の痛みもあって、鎮痛剤を使ったりして眠れない夜を過ごしましたが、次の日から痛みもとれてきて少し落ち着きました。しかしそのうちだんだん肩がこるようになってきました。どうやら、ベッドのマットが硬かったために肩がこっていたようでした。そのことを看護師さんに伝えると、「そうですか?ちょっとマットを見せてください」と調べ始めたところ「ああ、これではね、肩がこるはずです」と言って判明したのは、マットの中に厚く硬い木の板が入っていたのです。どうやら、私の前にこのベッドにいた患者は腰の病気だったらしく、その矯正のために硬い板を使用していたとのこと。その板を撤去することなく私が使用したため肩こりになった、というのです。板を撤去してもらってからは、肩こりもなくなり、熟睡できるようになりました。それにしても、こういうこと(マット内の厚い板をそのままにしていること)が起こるのは、何故なんだろう?と驚きを隠せませんでした。退院する時に確認しないのかなあと不思議に思いました。

怖かったことといえば、2週間の入院中に、私のいる大部屋の廊下を挟んで向かい側の個室に入院していた方が亡くなったときのことです。夜中の2時ごろだったかと思いますが、突然バタバタと人が行き来する足音がしたかと思ったら、しばらくして、おそらく患者の家族と思われる人たちのすすり泣きが聞こえてきたのです。その時までは、臨終の場に立ち会ったことがなかったので、夜中に聞こえるすすり泣きの声が、小さいころに聞いた怪談を思い起こさせ、とても怖かったことを覚えています。

また、私の手術・入院がとても慌ただしく行われたため、当時妊娠8か月の身重だった家内が、手術・入院が決まったあとに、私の着替え等を家に取りに戻る際に、病院の狭い駐車場から車を出そうとして、あわててハンドルを切ったため、買って半年もしない新車の右後ろのドアを隣の車にこすってしまったのです。怪我がなくて本当に良かったのですが、あとで修理代がとても高くついてしまい、まさに弱り目に祟り目とはこのようなことを言うのだなあ、と落胆した覚えがあります。

娘が小学生だったとき、大腿骨を折って手術入院をしました。用水路の蓋が開いていて、遊んでいたときにそこに落ちたのです。底に水が少しあるだけでしたが、深さ1mほどの穴に落ち、泣いているところを通行人に助け上げられました。一緒に遊んでいたお友達が走って知らせにきてくれたときは、いつものようにただ転んで泣いているのだと思ったのですが、現場に行ってみてびっくり、娘の脚がくの字に曲がっているのです。慌ててちょうど家にいた夫に電話をし、すぐに病院に連れて行きました。

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救急外来に駆け込み、ますはレントゲンを撮ってもらいました。レントゲンを撮るために足を少し伸ばす必要があり、怖がって泣き叫ぶ娘の足をスタッフの方が持ってくださり、レントゲン撮影をしました。写真を見るまでもなくやはりぽっきりと折れており、そのまま金属で固定する手術をすることになりました。折れた骨を金属とボルトで固定し、6ヶ月後にもう一度金属を取り外す手術をすると説明していただいたのですが、ただでさえ動転して手術怖いと泣き続けている娘に、2回手術をするとはどうしても言えませんでした。また、部分麻酔では子供の場合、怖がって動いてしまうと危険だということで、手術室の準備を待って全身麻酔で手術をし、そのまま空いていた個室に入院することになりました。

まず驚いたのは、あんなに手術を怖がっていた娘が、終わったあとは淡々としていたことです。逆に緊張の糸が切れたのか、個室に入って、ふう、とベッド脇の椅子に腰をおろした途端、夫がわあわあと声をあげて泣き始めました。娘の足の包帯を見て涙を流し続ける夫に、娘が「お父さん、落ち着いてよ。手術も終わったし、ちゃんと治るんだから」となぐさめていました。夫が娘のそばから離れないので、私が一度帰宅して、入院中の着替えや必要なものなど揃えてまた病室に戻ったのですが、夫はまだ泣いていて、娘のほうが大人のようになぐさめており、いざとなると女性のほうが強いんだなと思ったのを覚えています。娘をひとりにするのはさすがにどうかと心配になり、病院に許可をとって私が泊まることにしたのですが、帰ればいいのに夫も泊まると言い出しました。じゃあ私は帰ろうかと言うと、今度は娘が私にいてほしいと。結局、狭い病室に親子3人で泊まることになりました。

初日はそうやって静かに過ぎていったのですが・・・困ったのは翌日からです。夫が近くに住む姑に知らせたところ、早速舅と姑がお見舞いに来てくれました。交替で食事に出たりするのに助かったのですが、姑が夫側の親戚中にこのことを連絡してしまったのです。田舎のため、情に厚く結束の堅い夫側の親戚の人たちは、面会時間になるとひっきりなしにお見舞いに訪れるようになりました。

こちらは付き添いの寝不足でふらふらですが、親戚が来てくれているのに寝転ぶわけにもいきません。みなさん心配して来てくださるのでありがたいのですが、まるで接待のような状態に。しかも、娘があまりの人の出入りの多さに神経が高ぶり、頭が痛い、ひとりになりたいとしくしく泣くのです。姑に、娘の状態を話して、お見舞いは退院して落ち着いてからお願いすることにして入院中は辞退したいとお願いしたのですが、姑としても立場があるようで、そのお願いは聞き入れてもらうことはできませんでした。娘は泣いているし、親戚は遠方から来てくださっているしで板ばさみになり、付き添いも重なってかなり疲弊しました。病室にはおもちゃやぬいぐるみなどで溢れて見た目にはにぎやかで楽しそうな部屋になり、看護師さんやお医者さんもおもわず笑ってしまうほどでした。お見舞いの数からも個室で良かったと思いました。

以前肺炎にかかって入院した事があります。約10年くらい前です。初めての入院でした。病気が発覚した事については病院に受診して検査したら緊急入院でした。経緯としては、当初風邪と思っていたのですが、咳が止まらなく夜間も咳き込んでいました。薬は一般の薬などを服用していたのですが、1ヶ月以上で咳が出るだけでなく、咳き込むのと同時に吐き気がして吐いてしまいました。そこで咳止めをもらおうと考えて病院に受診したら検査の結果当日緊急入院を告げられ、帰宅は禁止でその日のうちに緊急入院でした。

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病院に受診した際は体温測定や問診表を書いて、医師の前に座った時も風邪やインフルエンザが流行っていたので問診時は咳の状況や近辺に風邪の人はいないかなどの話があり、聴診器で肺の音を聞いたり、腹部を触診したりされました。とりあえずレントゲン撮ってみましょうとの事で、レントゲン室に行って胸部レントゲンを撮りました。その後、先生に呼ばれてレントゲンではよくわからないのでCTを撮らしてくださいとの話になり、CT室に呼ばれました。

CT室では咳をできるだけ我慢するように言われて、撮影後にCT室の医師に呼ばれました。先生の前に座ったら「今日は帰れません」との一言。その後現状の体の話をされました。「肺は真っ白で肺炎です」との事を告げられ、入院の事や治療の事などを話されました。兎に角、肺が綺麗にならない限り退院できないとの事で、抗生物質を継続的に使い細菌を殺す処置をしなければいけないとの話でした。入院中は絶対安静で、抗生物質の点滴とネブライザーという加湿器のような機械を用いての呼吸の改善処置が毎日でした。

入院中にあった事としては、24時間の点滴をかなりの期間続けました。肺炎になったのは初めてでしたが、こんなに咳が出るかと思うほど24時間休みなく咳が出続けました。大部屋だったので他の同室の部屋の人に迷惑ではと思っていたのですが、どうしても咳が止まらなく申し訳ないでした。抗生物質を約2週間に間を1週間あけてから再度点滴が続き少しずつ肺炎は良くなっていきました。しかし、一回肺炎になってしまうと咳が止まらないもので、出続けました。

入院中に驚いたことは、外科の病院だったので仕方ないのでしょうが、大部屋に入院される人はさまざまな人がいました。私のような患者だけではなく、脱腸と昔言われていた鼠径ヘルニアになってしまった若い人や、お腹の手術だったといわれる男性や、検診のための一泊二日入院される人など入れ替わりも激しいでした。そんな病室だったので、他の人の行動が色々見えて、コンコンと出る咳はきつかったのですが、他の患者さんを見て楽しんでいました。

笑えたのは、いつもは強がっている様なおじさんが奥さんに甘えている姿がなんとも面白く思えました。強がっているのですが、自動販売機や水道の水を飲めばいいのに水をもってこいとか、ご飯がおいしくないから梅干やふりかけを持ってこいなど大きな声で訴えていました。奥さんが帰られるとションボリとしている姿がおかしく見えました。男とはこんなものかと思いました。

またカテーテル検査で2泊3日入院されている男性は実際の検査時間は2日目で30分から1時間程度なのに、前の日に術前検査や説明もあり、検査後も1日入院するので有給を取ったと話していました。父は心臓が少し弱いので、カテーテル検査や治療について調べた時に
何かの記事でフェイスメディカルという医療機器の営業さんは施術中に外で待機をして医師に助言をしたりするなど、細やかなサポートで患者さんを支えているのを読みました。だから安心して施術を受けられますよ、とその方にも伝えました。

入院中困った事は、いつまでたっても咳が出てこのまま死んでしまうのではと考える夜もありました。咳は出続けていましたが、退院の話がいつまでたっても医師の話の中で出てこない事も不安になりました。他の患者さんたちはどんどん退院されていくのですが、当初入院予定の3週間から4週間たっても退院の話は無く、3週間目には再度抗生物質を入れた方が良いとの指導で再び抗生物質の点滴でした。医師も若い先生だったので困り顔で、患者の私の方が申し訳ないでした。

医師からもちょっと入院が伸びるかもしれないとの話が出る始末でショックでした。肺炎が良くなり始めたのは約3週間過ぎくらいで、急速に咳が止まり始めました。それまで怖いくらいに止まらずきつかったのが、急に呼吸がしやすくなり咳も少なくなっていきました。呼吸の改善が見られ始めてからレントゲン写真を撮ったら、やっと良くなっている兆しが見られ始めました。この時は、退院の話が聞かれてやっと退院できるような感じがあり感動しました。仕事もあるからとの事で、無理はしない様にとの医師からの指示にて約1ヶ月で退院。通院をその後はしましたが、すっかり治りました。

職場の人達と一緒に、とある遊園地に行きました。朝1番で遊園地に行き、たくさんあるアトラクションの中で、まず1つ乗ったのですが、その後、次のアトラクションに移動するまでに、小さい子どもでも遊べるゴーカートや、マット、トランポリンなどの運動遊びなどのコーナーがありました。まだまだ時間もあったので、そのコーナーのマットやトランポリンのコーナーで遊ぶ事になりました。トランポリンで遊んでいたら、あまりにも懐かしく、そして楽しくなり、ピョンピョン飛び跳ねていたら、トランポリンの布の上で足を滑らせ、あり得ないくらいの角度で足首がグネっと曲がり、足首の骨折をしてしまいました。  

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病院に行き、まずはレントゲンをとり、骨の状態を見て骨折との診断がすぐに下されました。県外の出先での怪我だった為、実際であれば、即入院の所なのですが、紹介状をもらい自宅近くの病院にて再度診察になりました。もう一度レントゲンを撮り、先生からは、足首の外側は引っ張られてパキンと折れ、内くるぶし側は圧縮された事によって、粉砕骨折が見られると説明がありました。

手術が必須との事で、外側はプレートで接続し、内側はフック状の金物を使い繋ぐ手術をしますとの事でした。その手術を行い、2?3週間してまた再度レントゲンを撮り、リハビリを始めて、骨が再生し、歩ける様になったら退院との説明がありました。その時は、ケガの治り具合にもよるけれども、大体全治1?2ヶ月ではないかとう説明がありました。それらの説明が終わり、入院準備をしようと家に帰ろうにも車椅子での移動しかできないので、その場で入院という流れになり、入院準備は、親にお願いして持ってきてもらいました。

入院中に驚いた事は、全身麻酔での手術をする為に、事前に麻酔の効き目を良くするための注射をはじめ、点滴のルート取り、筋肉注射、術後の抗生剤の点滴、血液検査など、とにかく注射で針を刺される事が多かった印象があります。また、実際に手術する前に、麻酔科の先生から麻酔を投与されるのですが、その麻酔の効き方が驚くほどすごくて、寝てなるものかと必死で抵抗していたのですが、ものの3秒数えるか数えないかの所で意識が無くなってしまった事でした。麻酔って、こんなにもすぐに意識が無くなるものなのかと、驚かされました。そして、目が覚めて、麻酔が効いているうちはなんともなかったのです。

麻酔が切れた途端に激痛が走り、麻酔ってすごいんだなと感じました。リハビリが始まったのですが、手術して2週間、その期間だけ全く足を使っていなかっただけなのに、足が片方だけ細くなり、ぶよぶよ、ふにゃふにゃになったのには驚きました。運動してないと感じていても、実は最低限の筋肉は使っており、だからこそ動く事ができるのだなと人間の体ってすごいなと思いました。

入院中怖かった事は、リハビリです。新たにリハビリのメニューが加えられたり、足に乗せる自分の荷重が増える時には、まだ完全に骨がくっついていないのにそんなに荷重をかけていいのか、また折れてしまうのではないかという恐怖がありました。もちろん、担当の先生や理学療法士さんは、骨のレントゲンの状態を見ながらリハビリの方針を決めているのはわかってはいるのですが、リハビリをする側としては、足首が硬くなってるし痛いしで、メニューが増えるたびに自分の恐怖心との戦いでした。

その様な入院生活でも、同年代の子達もいたりして楽しい入院生活を送る事も出来たのですが、なによりも、自分が仕事をしていた時に遊びに行っていたお客様の奥様もまた、私と同じ様なケガで入院されており、以前よりも奥さんと仲良くなる事ができ、退院してからもよく付き合う様になれた事が嬉しかったです。また、あんなに痛くて、歩く事もままならなかったのに、今では元気よく走ったり、大好きなスノーボードもできるまで回復する事ができ、健康な体の有り難みをとても感じました。また、現代の様に医学が進歩した中に生まれて来ることができたのも感謝だなと強く思いました。

思わぬ時にけがをしたり、ふとした時に病気に気づくものです。しかも入院となれば大変です!突然の入院生活についてどのように過ごしたのか、周りの方々に聞きました。

・お風呂に入っていて気づいた鼠径ヘルニア

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5歳の時、お風呂に入れてもらった際に父親は私の身体に異変を感じたようです。体を調べてみると、鼠経部の筋膜の隙間から内臓らしきものが皮下に突き出てしまっていました。飛び出したモノを手で押し込めたり横になって眠ったりすると内臓は引っ込み、お腹の中に戻って行きました。その時私自身は痛みを感じませんでした。しかしこれはおかしいと感じた父親に病院に連れていかれ、検査をしてもらったところ鼠径ヘルニアであることが発覚しました。

病院に行った際は血液検査、超音波検査、CT検査などを行われました。一通りの検査が終わり医師から説明を受けました。鼠径ヘルニアは成人になると自然に治ることはなく、放っておくと痛みを伴ったり傷が大きくなることで手術が困難になってしまう、最悪の場合は圧迫されることで腸が懐死してしまう場合があると説明されました。手術では脱出した内臓をお腹の中に戻し、腹壁の孔をふさぎます。すぐに手術をした方がいいということで私は5歳にして人生初の「入院」というものを経験しました。

入院中はずっと不快な気分で過ごしていました。痛いのは嫌いだし他の人と相部屋で落ち着けません。それまで一人っ子でわがまま放題してきた私にとっては苦痛な時間でした。私の病院嫌いはこのときの入院経験が原因だと思います。一方で、これまで幼稚園と家の中しか世界を知らなかった私が、病院という違う世界を知ることのできた貴重な体験の瞬間でもありました。私と同じくらいの年齢でもっと重い病気にかかって入院している子、学校に通えず治療をしている子、色んな人がいるけど皆 弱音も吐かず病気と闘っていました。

私は人見知りで無愛想な子供だったのですが構わず明るく話しかけられました。短い間でしたが話す仲間もできました。入院中は、世の中には色んな人がいて色んな人生があることを知りました。学校に行けること、健康であること、外で元気に遊び回れること、家族と家で一緒に暮らせることは当たり前のことじゃないんだとカルチャーショックを受けました。一週間ほどで退院したのですが、自宅のベッドで眠れた時のほっとした気持ちはいまだに鮮明に覚えています。母の作ったごはんのおいしかったことや、ケーキを父が退院祝いで買って来てくれたことなど、も思い出します。

入院中、怖かったこと、困ったことは3つあります。1つ目は病院食があまり口に合わなかったことです。手術の影響もあるのか一口食べてはもどしてしまうひどい状態でした。結局デザートのゼリーやヨーグルトだけ食べていました。2つ目は眠れなかったことです。病院は夜になると幽霊が出ると父親から聞いていたので怖くて眠れませんでした。幽霊は見ませんでしたが、夜中中相部屋の子たちのすーすーと立てる寝息をうらやましく感じていました。3つ目は「痛くないからね」と念を押されたにも関わらず、相当痛かったことです。手術が終わった後はあまりの痛さに歩くことすら出来ませんでした。退院後も痛みは続き暫くものを食べられませんでした。先生に痛い、と訴えたのですが「大丈夫、大丈夫」と笑顔で言われたのが少し悔しかったです。

数年間は手術した箇所が痛みました。長い入院生活の中、病気と闘う人達のドキュメンタリーなどを見ると頭が下がる思いです。私もいい大人ですが、入院生活に耐えられる気がしません。

5歳にして貴重な体験をしました。お陰様であれ以来一度も入院することなく健康に生きているので、当時治療して下さった医療関係者さんや支えてくれた家族には感謝しています。小さな体で病気と闘っている子供たちがたくさんいるのを知ることができ、健康な体で過ごすことができる大切さを学びました。